このブログで急に50代をアピールしたくなった話をします。(笑)
ここ数年、同年代の友人知人の訃報が相次ぎました。
人知れず重い病気と闘っていたり、ある日突然というケースもありますが、私の考えの中では「年齢」に無関係で個人の違いによる体の組織の変質のようなもので、どんなに健康的な生活を自負されていても「病気になるときはなる」抗えないものとしているようです。
私の母は59で亡くなりましたが、長く病弱で苦しんでいたので周囲が言うほど「早すぎた」とは思っていません。
らくになれて良かったねと乱暴に言えませんが、母が息を引き取ったさい、父が母の額を撫でて「お疲れ様」と声をかけた時、ふと脳裏をよぎったのは毎食前後に手のひらいっぱいの薬を飲んでいた母の姿です。薬を飲むことが生活の一部。ああ、それが終わったんだな。と感じていたのを覚えています。
なぜ母があんなに体が弱かったのか。(最後は癌でした)
私もその遺伝子を受け継いで、きっと病気になるだろう。
いや違いました。
自慢にならない話ですが、検診も受けたことがなく病院とは無縁です。ありがたいことです。
それでも「病気になりそうなとき」があります。
何かがうまく運ばない時ですね。
人間関係、お金、創作の行き詰まり・・・悩みのタネは波のように大なり小なり押し寄せてくる。
それはメンタルな問題なんだと思いますが、その沼にはまりそうな時すぐに気が付くのが私のタフなところだったりします。
年々それが上手になってきている手ごたえを感じます。
実は昨年までは「自分は嫌なことから逃げてばかりだ」「卑怯者かもしれない、あるいは弱虫なのだ」と自分を責めることが多くありました。
ちょっとまて。嫌だから逃げる、捨てる、とにかく離れる。
それによって自分を責めるのはいかがなものか。まずはそれをやめようと決心し、このコロ助騒ぎに乗じて立て直すよう努力しました。
自責の無限地獄から抜け出すと「何で気づかなかったんだろう」が次々に襲ってきました。(つまりこれが「気づき」ってやつか、と笑ってしまいました)
逃げた先に何がある?
捨てたあとに何を拾う?
離れたら何に近づくことができる?
「やりたいこと」
「心の奥底でやってみたかったこと」
「誰にも遠慮せず、咎められず」
やればいいじゃないか。
そういうことだよ。
何を気にして、誰を気にして、誰の顔を伺って、
自分自身のやるやる詐欺が、奥の方から正体を見せ始めました。
きっとそれを「誰かのせいにしていた」のです。それが自分にバレました。
さて、他の障害は何かあるかな?
年齢だ。
経済的な問題などもありますが、もしお金があったら他に何が問題?
やっぱり頭をもたげてくるのは「年齢」しかありません。
夢中になれることをしていたら、年齢を感じる?
答えはNOですね。事後「はぁ、クタクタ~、歳だぁ~」とはなるでしょうけど、最中はそんなこと思う余地もないはず。(何だかシモネタっぽい表現)
つまり、早い話が「趣味に打ち込もう!」ということです。
病魔の忍び込む隙もないほどね。
何も、病気で苦しんでいる方のことを「隙あり」と言っているわけではありません。
しかし、万に一つでも「好きなことをする」ことで身体的にも精神的にも何らかのマイナスな事象から避けられることができるなら、病の種になる要素の一部が体内に取り込まれたり変性することだって回避できるのではないかしら。
簡単に言うと「病は気から」となりますが、その言葉を好まない方にこそ、その意味をしっかりと噛み締めてみて欲しいと思っています。
以上、長生きしそうな今日以降の自分自身へ愛を込めて。