アトリエよんよんblog

描いたり作ったり時々デジタルな絵描きの日常ブログ

「らくすり」を描きました sold

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MDP150 らくすり

昨年、いったん行き詰るまでは「夜9時にミニアート制作タイム」としていたのですが、今は朝型です。

朝だと下地を作っておいて乾くのを待つ時間も十分にとれるので、絵具遊びも楽しめます。

 

いちおう絵の説明(^▽^)/

タイトルは、昨日の投稿でちょっと考えてしまった「薬って一体何者なんだろう」(そこまで書きませんでしたが)。

 

一見「らく」にも見える字、「楽しい」に似てる文字。

 

そういえば、私は音楽が好きです。
音を楽しむ、音楽。

決して「音学」ではないんですよね。

昔の人が「音楽」にしといてくれて本当に良かったと思います。

 

「らくすり」は、化学物質でも漢方でもない、楽しいおくすりなんじゃないかな。

一日に何度服用しても大丈夫。
副作用は、うっかり長生きしちゃうことです。

 

 

年齢を気にする時間があったら好きなことをしよう。

このブログで急に50代をアピールしたくなった話をします。(笑)

 

ここ数年、同年代の友人知人の訃報が相次ぎました。
人知れず重い病気と闘っていたり、ある日突然というケースもありますが、私の考えの中では「年齢」に無関係で個人の違いによる体の組織の変質のようなもので、どんなに健康的な生活を自負されていても「病気になるときはなる」抗えないものとしているようです。

私の母は59で亡くなりましたが、長く病弱で苦しんでいたので周囲が言うほど「早すぎた」とは思っていません。
らくになれて良かったねと乱暴に言えませんが、母が息を引き取ったさい、父が母の額を撫でて「お疲れ様」と声をかけた時、ふと脳裏をよぎったのは毎食前後に手のひらいっぱいの薬を飲んでいた母の姿です。薬を飲むことが生活の一部。ああ、それが終わったんだな。と感じていたのを覚えています。

なぜ母があんなに体が弱かったのか。(最後は癌でした)
私もその遺伝子を受け継いで、きっと病気になるだろう。

いや違いました。
自慢にならない話ですが、検診も受けたことがなく病院とは無縁です。ありがたいことです。

 

それでも「病気になりそうなとき」があります。

何かがうまく運ばない時ですね。

人間関係、お金、創作の行き詰まり・・・悩みのタネは波のように大なり小なり押し寄せてくる。

それはメンタルな問題なんだと思いますが、その沼にはまりそうな時すぐに気が付くのが私のタフなところだったりします。

年々それが上手になってきている手ごたえを感じます。

 

実は昨年までは「自分は嫌なことから逃げてばかりだ」「卑怯者かもしれない、あるいは弱虫なのだ」と自分を責めることが多くありました。

ちょっとまて。嫌だから逃げる、捨てる、とにかく離れる。
それによって自分を責めるのはいかがなものか。まずはそれをやめようと決心し、このコロ助騒ぎに乗じて立て直すよう努力しました。

 

自責の無限地獄から抜け出すと「何で気づかなかったんだろう」が次々に襲ってきました。(つまりこれが「気づき」ってやつか、と笑ってしまいました)

 

逃げた先に何がある?

捨てたあとに何を拾う?

離れたら何に近づくことができる?

 

「やりたいこと」

「心の奥底でやってみたかったこと」

「誰にも遠慮せず、咎められず」

やればいいじゃないか。

そういうことだよ。

 

何を気にして、誰を気にして、誰の顔を伺って、

自分自身のやるやる詐欺が、奥の方から正体を見せ始めました。

 

きっとそれを「誰かのせいにしていた」のです。それが自分にバレました。

 

さて、他の障害は何かあるかな?

年齢だ。

 

経済的な問題などもありますが、もしお金があったら他に何が問題?

やっぱり頭をもたげてくるのは「年齢」しかありません。

 

夢中になれることをしていたら、年齢を感じる?

答えはNOですね。事後「はぁ、クタクタ~、歳だぁ~」とはなるでしょうけど、最中はそんなこと思う余地もないはず。(何だかシモネタっぽい表現)

 

つまり、早い話が「趣味に打ち込もう!」ということです。

病魔の忍び込む隙もないほどね。

 

何も、病気で苦しんでいる方のことを「隙あり」と言っているわけではありません。

しかし、万に一つでも「好きなことをする」ことで身体的にも精神的にも何らかのマイナスな事象から避けられることができるなら、病の種になる要素の一部が体内に取り込まれたり変性することだって回避できるのではないかしら。

 

簡単に言うと「病は気から」となりますが、その言葉を好まない方にこそ、その意味をしっかりと噛み締めてみて欲しいと思っています。

 

 

以上、長生きしそうな今日以降の自分自身へ愛を込めて。

 

 

 

メルカリでギターの弦を買いました

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メルカリで買ったギターの弦です。安くてありがたいです。

(たまには張り替えないと--汗)

 

小学校高学年の頃、世間で流行っていたと後になってから知ったんですが、うちにギターがあったのと、父も兄も弾けていたので「大人になると誰もがギターを弾くもの」と思い込んだのでしょう。

 

 

毎日学校から帰るとランドセルを放り投げて外で遊んで、暗くなると夕飯前に茶の間練習してました。

与えられたのはクラシックギターとカルカッシ教則本です。

 

表紙を覚えてないのですが、たぶん中身は似たようなものでしょう。

 (まだ持ってるけど、表紙がちぎれて無くなってた(;^_^A なんせ9つ上の兄から継承されたので軽く50年以上経ってる)

 

 

 

「ギターを弾こう」というNHKの番組もありました。懐かしいです。

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昭和54年ってことは、当時中3です。たぶんお小遣いで買ったのでしょう。(記憶ゼロ)

 

高校ぐらいから弾かなくなって、長いこと兄の家に保管されていたのを数年前に引き上げてきたのですが、2年前にたまたま「楽器OK」の物件に引っ越して少しずつ練習を再開しました。

 

時代は流れて、クラシックギターブームはどっかに行っちゃいましたね。(笑)

 

しかし、生の楽器の響きを自分で弾き出す楽しみというのは格別な体験です。

子ども時代の体験が今、自分を大きく彩ってくれている。
私の場合、急に初めてこれをやってみよう、とは思わなかったはずですから。

 

なので改めて、幼い日の自分に「ありがとう」と声をかけたいです。

 

 

 

ウスネオイデス/スパニッシュモス

方向転換したところで(笑)さっそく投稿したい!

「じぶんち好き」と言っても、インテリア系のおすすめにできるようなオシャレな空間ではない我が家です。
テーマもなく、好きなように買い求めセンスもへったくれもないのですが、今回メルカリで購入したのはコレ。

 

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ウスネオイデス

メルカリで植物の物色をするのは楽しいひとときですが、衝動を抑えるのはちょっとしたコツがあります。

「どうせ枯らす」

自分にそう言って釘を刺すのです。

 

去年もコレ、買いました。枯らしました。

 

枯らして勉強するのであります。

 

どうもテキサスの荒野で丸まって転がってる根無し草と間違えたんですね。ベランダに干したまま放置してしまいました。夏の日差しにやられてしまったのかも。

 

今回はしっかりと2ページにわたる説明が添えられており、販売者の熱き想いが伝わりました。
その想いにぜひ応えましょうぞ。

 

ふんわり、しっとり、ひんやり。
そして新鮮なモチモチ感がございます。ああ、健康なウスネオイデスってこんなんだ。

自分で買ったのか、娘が置いてったのか忘れた鳥かご風吊り具(たぶんセリア)が空いていたので、ひょろひょろと引っかけてハングしてみました。
よし、風、水分、明るい場所をキープ。

 

撮影のために壁際に持ってきましたが、朝日だけ当たるカーテンレールの下を一応の定位置にしてみました。

 

モフモフと育ちますように。

 

 

 

 

 

漕ぐのをやめました(笑)

ミニキャンバスのアクリル画

MDP148 にちようのおと

お久しぶりです。
このブログも1年を経過しましたが(いつだろう)途切れがちになってました。
何度も「心を入れ替え」奮闘しようと試みながら、気づいてしまつたのですヨ。

 

入れ替えが必要なのは心じゃない!

ブログの主旨だ!

 

(笑)

 

作品ツクリました、見てくださいね。

それだけでは自分がつまんないのです。

 

コロ助のおかげで?この1年ずいぶんと考えました。
というより「流されて」みたのです。

 

ほら、川が途中で分かれていたら、せっせと漕がないと行きたい方に行かないでしょ。

だからこれまでは星一徹みたいな顔で必死で漕いでたんですヨ、
それを辞めたんです。

舵もとらず、帆も張らず、オールも投げ捨て、バイトも解雇で(ついでにサラっと言ってみた)

 

漕がなきゃいけないと思い込む病気はコロ助よりもタチが悪い上に、行きたい方に漕いでなかったことにも気づいてしまいました。どーん!

 

本当に行きたいところは何処だったのでしょう。

 

「じぶんち」でした。

 

私は自分の家が好きです。
好きなものしかない空間で、好きな仕事や遊びに興じることを好みます。

 

巣です。

 

この巣はクラっとするような家賃もかかっていますが(当社比)、ハッと気づけばうちの中はアミューズメントパークじゃないですか。
全部自分が必要なものだったり、私のためにくださったものや、やりたかったことを達成する道具ばかりです。欲しいな=必要 という独自の公式もございます(;^ω^)

 

毎日目が覚めるとここに来てる!

そんな意識を持ってみると、まぁ楽しい。

 

いやぁ、気づくのに何十年かかってんだろ。

 

ということで、今後はもっと自由に遊ぶブログとなりますが、

どうぞよろしくお付き合いくださいです。

 

 

「ポルカ」を描きました-劣等感から列島感へ

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MDP109 「ポルカ」

何でポルカ?・・・てきとーです。

もろもろ略していきなり言いますが、私は劣等感を強く持っているんだなと気づきました。こんなことに気づくメリットってあるんだろうか。(笑)

何においても劣等感。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は劣等感。

幼児体験か?何かあったんだろうか?と、幼少時代に思いを馳せてみたんですが、学校の体育が苦手で、鉄棒の逆上がりも逆立ちもできなくて、いつも一人取り残されたような恥ずかしさがありました。

でもちょっと待って、小学校に上がる前は遊びで何でも出来ていた。

学校という場所は行かなければいけない場所で、登校拒否なんて考えもしなかったんですね。体育の時間には体操着に着替えなきゃいけなくて、それ今やりたくないなって思ってもやらなきゃいけない。かけっこも逆上がりも。並んでボールを投げ合ったり。

「ちっともおもしろくない。やりたくない。」

すると私は体は動かないように出来ているらしい。これ本人もすごく困っていながら、ボール持っても力が入らないし追いかける足もフラフラとてきとーに。だって遊びたい相手じゃないし。

「なんかここではなにもうまくいかない。」そんな気持ちになるのが私にとっての学校でした。挙手発言も一度もしたことがなく、自分がそうしないだけなのに「だめなこどもだ。」と思い込んでしまいました。高校までずっとそんな調子でしたね。ああもったいない。

今頃になって「変な劣等感を持ってしまった」と嘆いているのですが、どうするこの今もって引きずっている劣等感、劣等感、ああ劣等感。

今朝、起きてからそんなことをつぶやいていたら、頭の中にポコっと

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列島

が浮かんできました。

列島感。グローバルとまではいかないけど、日本をすっぽりと包み込む「列島感」いいわあ~。

これからは「劣等感」が頭をよぎったらスッと変換しそうです。んー。いきなり大物感。我ながら素晴らしいわぁ~。皆さんもぜひお試しを。

 

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